障害者のケアや自立支援に取り組むNPO法人文福。事務職として働く筆者が、自身の目から見える社会、自立、障害などを、独特の語り口で伝えてきた。最終回は「障害者」「健常者」にはっきり分かれたように見えてしまいがちな、世界そのものを問い直す。
「標準的な人間は四二・一九五キロ走れる。普通の人間は十メートルも走れば、息が切れる」。私の大好きな「人間について」の定義です。
生きていくのに困ること、不便なことが全くない人なんていないだろう。みんな何か困りながら生きている。自分で解決できるなら解決すればいいし、我慢できるなら我慢すればいい。
でも困りごとがとても大きくて、一人ではどうしようもならない人たちがいる。そんな人たちの、さらに一部の人たちに対して、行政が「障害者」という基準線を引き、支援する。(線が明確になる前は、障害状況そのもので彼らを呼び、その状況に沿った暮らしの知恵を働かせていた)
では、困りごとがある程度大きくて、自力で何とかできるかできないかが微妙な人たちは何なのだろう。健常者だろうか?
基準線の内か外かで、社会の見方は大きく変わる。障害の当事者でさえ、非障害者はなべて不自由のない人と思っているかもしれない。
果たして、非障害者=健常者といえるか? 健常者であるということは、何でもできるということではない。たとえ四二・一九五キロ走れても、何でもできるわけではない。
私たちは何かに困りながら生きている。困りごとの多い人から困りごとの少ない人まで、みんな一本の連続線の上にいて、それぞれなんとかバランスを取りながら生きている。
そんな世界で、障害者が「障害者」という身分に自分を固定してしまうと、そして非障害者も自分を「健常者」と決めつけると、みんなが連続線上にいることを見失いかねない。みんな普通の、困っている人にすぎないことを忘れないでいたい。
ひねくれた事務員の文章も最終回です。筆力不足で不明確な点が多々あり、また、書きたいことの半分も書けなかったという反省もありの十回でした。お付き合いくださった方には、感謝!です。
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年末恒例のお楽しみ企画「たぬきマス」。歌って踊って、一年の煩悩を払いましょう
(NPO法人文福・堀田正美)
2中日新聞-012年10月30日
「標準的な人間は四二・一九五キロ走れる。普通の人間は十メートルも走れば、息が切れる」。私の大好きな「人間について」の定義です。
生きていくのに困ること、不便なことが全くない人なんていないだろう。みんな何か困りながら生きている。自分で解決できるなら解決すればいいし、我慢できるなら我慢すればいい。
でも困りごとがとても大きくて、一人ではどうしようもならない人たちがいる。そんな人たちの、さらに一部の人たちに対して、行政が「障害者」という基準線を引き、支援する。(線が明確になる前は、障害状況そのもので彼らを呼び、その状況に沿った暮らしの知恵を働かせていた)
では、困りごとがある程度大きくて、自力で何とかできるかできないかが微妙な人たちは何なのだろう。健常者だろうか?
基準線の内か外かで、社会の見方は大きく変わる。障害の当事者でさえ、非障害者はなべて不自由のない人と思っているかもしれない。
果たして、非障害者=健常者といえるか? 健常者であるということは、何でもできるということではない。たとえ四二・一九五キロ走れても、何でもできるわけではない。
私たちは何かに困りながら生きている。困りごとの多い人から困りごとの少ない人まで、みんな一本の連続線の上にいて、それぞれなんとかバランスを取りながら生きている。
そんな世界で、障害者が「障害者」という身分に自分を固定してしまうと、そして非障害者も自分を「健常者」と決めつけると、みんなが連続線上にいることを見失いかねない。みんな普通の、困っている人にすぎないことを忘れないでいたい。
ひねくれた事務員の文章も最終回です。筆力不足で不明確な点が多々あり、また、書きたいことの半分も書けなかったという反省もありの十回でした。お付き合いくださった方には、感謝!です。

年末恒例のお楽しみ企画「たぬきマス」。歌って踊って、一年の煩悩を払いましょう
(NPO法人文福・堀田正美)
2中日新聞-012年10月30日