震災から2年8か月が経った陸前高田市の今
筆者が岩手県陸前高田市を尋ねるのは約1年8か月ぶりのことだ。
東日本大震災から丸1年が経過した2012年3月11日ーー。筆者は陸前高田市で行なわれた岩手県と同市の合同慰霊祭に参加していた。陸前高田市は東日本大震災で市街地のほとんどが津波に飲み込まれ、1700名を超える死者・行方不明者が出た。慰霊祭の会場は陸前高田市立高田小学校校庭に建てられた特設テント。震災1年後に筆者が見た陸前高田の街は、山のように積まれた津波による流出物と、わずかに残された建物以外はほとんどが平らな土地だった。
震災から約2年8か月。その陸前高田市で「国際防災の日」(10月13日)を記念した「障害者と防災シンポジウム」が開かれるという。「陸前高田は今、どうなっているのか。これからどうなっていくのか」筆者はそんな思いを胸に東京から車を走らせた。
会場は高台移転したホテル
陸前高田市は岩手県の沿岸、三陸海岸の南寄りに位置する自治体だ。宮城県気仙沼市から国道45号線を北上していくと、かつて高田松原と呼ばれた場所には「奇跡の一本松」が立っている。これは約7万本あったと言われる名勝地「高田松原」の中で、唯一、津波の被害にあっても倒れることがなかった松だ。震災後、地盤沈下に伴う塩分過多により枯死が確認されたものの、防腐処理を施した上で「復興のシンボル」として保存されている。
奇跡の一本松を右手に見ながら仮設の橋を渡った国道45号線沿いでは、多くの重機により復興作業が続けられていた。しかし、街の様子を見渡すと、決して復興のスピードは早いとは言えない。今回のシンポジウム会場となる「キャピタルホテル1000」が位置する高台以外、海沿いの道からは大きな建物がほとんど見えないのだ。また、ホテルへと続く周辺の道路も砂利や水たまりが散見され、完全に舗装されているとは言いがたいものだった。
それでも会場となったホテルには、シンポジウム開催の数時間前から約200名の出席者が続々と集まってきた。ロビーには3日後の11月1日に控えたホテルの正式再オープンを祝う花が、ところ狭しと並んでいた。
「大変ご無沙汰しております」ホテルの職員たちがシンポジウムの来場者たちににこやかに語りかける。平らな土地が続く陸前高田の海沿いで、ここだけは華やいだ雰囲気に包まれていた。
10月13日は「国際防災の日」
10月29日に開かれた「障害者と防災シンポジウム」の主催は、国連国際防災戦略事務所(UNISDR)駐日事務所、日本財団、日本障害フォーラム(JDF)である。毎年10月13日は国連により「国際防災の日」と定められており、2013年のテーマは「障害とともに生きる人々と災害」。その記念シンポジウムの会場として陸前高田が選ばれたのだ。
2015年3月には宮城県仙台市で第3回「国連防災世界会議」が開催される。その大イベントを前に、「誰もが住みやすいまちづくりのあり方」を被災地である陸前高田で議論し、国際社会に提言していこうという試みだ。
岩手県内で最大の犠牲者が出た陸前高田市は、現在、戸羽太市長が掲げる「ノーマライゼーションという言葉のいらない街」を合言葉に復興の道を歩んでいる。これは「障害のある方もない方も、ともに生きる共生社会を実現しよう」というものだ。
シンポジウム開会の挨拶で戸羽市長は次のように述べている。
「残念ながら2011年3月11日の震災によって、陸前高田市の市街地はなくなってしまいました。なくなったということは、ゼロから作る。道路も公共施設も一つ一つの店も、これから作っていくわけです。目の不自由な方、体の不自由な方が自分の意思で買い物、遊びに出かけて自分の人生を謳歌できる、より質の高い生活ができる地域にしていきたい」
不幸な震災の経験を教訓として生かすためにも、ここ陸前高田でシンポジウムが行われたことは非常に有意義だといえるだろう。
シンポジウムには、国連事務総長特別代表(防災担当兼UNISDRヘッド)のマルガレータ・ワルストロム氏も出席している。ワルストロム氏によると、UNISDRは「障害者と災害」に関しての国際的な調査を始めており、すでに6千人が回答したという。調査は11月末まで行われるが、現段階で約7割が「コミュニティの防災プランに対して何も知らない」と答えているとの中間発表があった。同氏は「この背景には障害者の社会的な孤立が現象としてあるのではないか」との見解を示し、防災計画段階から障害者が参加していくことの重要性をあらためて強調した。
障害者の死亡率は住民全体の約2倍
国連事務総長特別代表(防災担当兼UNISDRヘッド)のマルガレータ・ワルストロム氏(撮影・畠山理仁)
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シンポジウムの主催団体の一つである日本財団は、阪神大震災以来、29回にわたって水害、地震などの被災地に支援を行ってきた。もちろん東日本大震災でも、岩手、福島、宮城などの被災地でさまざまな支援事業を行っている。
それらの事業の一環として制作されたのが、日本障害フォーラムとともに制作したドキュメンタリー映画「生命(いのち)のことづけ」だ。この作品では、被災障害者の実態や支援活動、必要とされる施策が当事者たちの証言を中心にまとめられている。
今回のシンポジウムでもこの映画が上映されたが、その冒頭に示されたのは「障害者の死亡率は住民全体の約2倍」という衝撃的な報告だった(注)。これは「障害者手帳所持者」の死亡率であるため、実際にはこれよりも高かったことが予想される。シンポジウム会場で映画を見ていくうちに、自然と一つの疑問が浮かんだ。それは「震災前の日本社会は、障害者だけでなく、高齢者や妊婦など、一人での避難が困難な人たちへの防災対策は十分だったのだろうか」という点だ。
映画では「津波警報が届かなかった盲ろう者」「被災後も救助を待ち続けた障害者」「避難所で暴言を吐かれた障害者」「避難所への避難をためらった障害者」たちの思いが語られている。映画を見れば、先の問いに対する答えが自ずとわかる。残念ながら、既存の防災政策が障害者や高齢者への配慮を欠いていた点は否定しようがないのだ。
もう一つ、今回の震災が遺した重要な教訓がある。それは自治体の持つ要援護者の名簿が「個人情報保護法の壁」に阻まれ、JDFなどの障害者支援団体に対して速やかに開示されなかったことである。
たとえば福島県内の避難指示、避難勧告が出た地域では、情報が届かなかった障害者が現地に取り残されるという不幸な事態も発生した。JDFなどの支援団体は安否確認のために障害者名簿の開示を行政に対して求めたが、実際に開示されたのは震災から1か月以上が経過した後だったという。
自治体によっては個人情報保護法の「人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、個人の同意を得ることが困難である時」という規程から開示を決断したところもあるが、すみやかに開示されなかったことで被害を拡大させた可能性も指摘されている。こうした課題は「いつ来るかわからない災害」のために、広く社会に共有されるべきものだろう。
【注・NHKが岩手、宮城、福島沿岸部の27市町村から行った聞き取り調査による。ただし、陸前高田市の場合は震災による死亡率は市内全人口に対して7.2%(2万4246人中1750人)。障害者に限ると9.1%(1368人中124人)であるため死亡率は1.2倍となっている。これは障害者の入所施設等が、もともと市街地から離れた高台にあったことも影響している】
誰もが住みやすい街は災害にも強い
シンポジウム後半には、「障害インクルーシブな防災とまちづくり」と題されたパネルディスカッションも行われた。「インクルーシブ」と聞くと難しい気もするが、日本語で噛み砕いて言えば「分け隔てない」という意味だ。
パネリストは菅野利尚氏(陸前高田市民生部社会福祉課長)、田中陽子氏(岩手県聴覚障害者協会気仙支部長)、津田知子氏(セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン 東日本大震災復興支援事業部副部長(プログラム)兼プログラムマネージャー(子どもにやさしい地域づくり))、小山貴氏(JDFいわて支援センター事務局長)の4名。ファシリテーターは藤井克徳氏(日本障害フォーラム幹事会議長)である。
はじめに行政の担当者である菅野氏からは、「震災以前の対策は、防災の視点が極めて弱かった。今思えば無力だったと感じている」との反省の弁が述べられた。それを踏まえた上で、平時から障害者が避難訓練等に積極的に参加することが提案されている。これは障害者が必要とする支援を地域全体で把握しておくことで、障害者支援のネットワークを形成する狙いがある。ふだんから地域住民が障害者とともに生きていることを意識していれば、災害時にも必要な支援が得られるという教訓だ。
一方、自身も聴覚障害者である田中氏からは、避難所での意思疎通の難しさが実体験として語られた。そこでは震災前に聴覚障害者団体の要望により設置されていた字幕付き警報ランプが津波によって流されてしまうなどの課題も指摘されている。また、震災前は消防署から送られていた注意喚起の情報メールが現在は機能しなくなっていること、福祉避難所設置の要望などが当事者の視点からなされている。
従来の防災計画は「屈強な大人の論理」ではなかったか
パネルディスカッションのファシリテーターを務めた藤井氏の言葉も強く印象に残った。
「障害者の権利条約では、特別な権利、新しい権利は一つも言っていません。他の者との平等、一般市民との平等を言っています。しかし、今般の災害では、障害を持った人の死亡率は2倍です。まるで生命が半分のように感じられた。これは天災だけでは考えられない。人災が関わったと言っても過言ではない。障害者に対する防災政策がほぼなかった原因としては、屈強な大人を中心に構成されてきたからではないか」
その言葉を受け、被災地で子どもたちを支援する取り組みを続ける津田氏からは、「子どもも権利の主張者である」として、子どもたちの意見をまちづくりに生かしていくための取り組みが紹介された。セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが岩手・宮城両県5地域の小学4年生〜高校生約1万1千人を対象に行なった調査(2011年5〜6月)では、約9割が「自分たちのまちのために、何かしたい」との回答を寄せている。それを受け、市町村の復興計画やまちづくりに子どもたちの声が反映されるよう、自治体や国などに対して政策提言を実施してきたのだ。
また、JDFいわて支援センター事務局長の小山貴氏は、「加齢による身体機能の低下は誰にでもやってくる問題。すべての人が災害弱者になると言っても過言ではない。そうした時に必要な支援は、障害のある方もない方も同じように保障されるべきである」と、すべての人にやさしいまちづくりを訴えた。すべての人がともに快適な暮らしを送るために必要なのは、建物の段差解消などのハード面だけではない。一番大切なのは「人々の意識」というソフト面である。
人々の考え方がバリアフリーでなければ、障害者は安心して街を歩けない。また、障害を持たない人も、日常的に障害者と接する機会を持たなければ、いざというときにどう接すればよいか戸惑ってしまう。つまり日常生活が「ノーマライゼーションの必要のない社会」になっていれば、自然と「災害時にも強い地域社会」が形成されるのである。
机上の空論に終わらせないために不可欠なもの
今回、会場に集った約200名の参加者の中には、車椅子での参加者も多くいた。ろうあ者のための手話通訳や、発表者の発言を要約して映し出すスクリーンも整えられた。もちろん壇上へのスロープも用意されていた。障害者を中心とする団体が主催者側にいるシンポジウムだけあり、障害者にとっても参加しやすく、理解が深まる貴重な機会であったことは間違いない。
しかし、この会場を一歩出た時、現在の日本社会が障害者をこのように包括できているかと言えば疑問が残る。それは会場の参加者からなされた次の提案を見ても明らかだろう。
「市の復興事業に入札する事業者、復興作業に従事する人たちには、すべて障害者疑似体験を義務付けるぐらいにしてほしい。そうでなければ『すべての人にやさしいまちづくり』など、いつまで経っても『机上の空論』になってしまうのではないか」
そこには「障害のある者とない者の相互理解」が不十分であることへのいらだちが感じられる。このような不安や不満を解消するためにも、今回のようなシンポジウムには、より多くの「障害を持たない者」の参加が不可欠になるだろう。
「ノーマライゼーションへの第一歩は、障害を持った人の立場に近づこうとする努力です」
これはパネルディスカッションでファシリテーターを努めた藤井氏の言葉だ。障害を持つ人、持たない人の双方が歩み寄り、日頃から交流して「心の壁」を取り去っていくことが「災害に強い社会」への近道となるはずだ。
2013年11月21日 08:03(取材協力:日本財団)
筆者が岩手県陸前高田市を尋ねるのは約1年8か月ぶりのことだ。
東日本大震災から丸1年が経過した2012年3月11日ーー。筆者は陸前高田市で行なわれた岩手県と同市の合同慰霊祭に参加していた。陸前高田市は東日本大震災で市街地のほとんどが津波に飲み込まれ、1700名を超える死者・行方不明者が出た。慰霊祭の会場は陸前高田市立高田小学校校庭に建てられた特設テント。震災1年後に筆者が見た陸前高田の街は、山のように積まれた津波による流出物と、わずかに残された建物以外はほとんどが平らな土地だった。
震災から約2年8か月。その陸前高田市で「国際防災の日」(10月13日)を記念した「障害者と防災シンポジウム」が開かれるという。「陸前高田は今、どうなっているのか。これからどうなっていくのか」筆者はそんな思いを胸に東京から車を走らせた。
会場は高台移転したホテル
陸前高田市は岩手県の沿岸、三陸海岸の南寄りに位置する自治体だ。宮城県気仙沼市から国道45号線を北上していくと、かつて高田松原と呼ばれた場所には「奇跡の一本松」が立っている。これは約7万本あったと言われる名勝地「高田松原」の中で、唯一、津波の被害にあっても倒れることがなかった松だ。震災後、地盤沈下に伴う塩分過多により枯死が確認されたものの、防腐処理を施した上で「復興のシンボル」として保存されている。
奇跡の一本松を右手に見ながら仮設の橋を渡った国道45号線沿いでは、多くの重機により復興作業が続けられていた。しかし、街の様子を見渡すと、決して復興のスピードは早いとは言えない。今回のシンポジウム会場となる「キャピタルホテル1000」が位置する高台以外、海沿いの道からは大きな建物がほとんど見えないのだ。また、ホテルへと続く周辺の道路も砂利や水たまりが散見され、完全に舗装されているとは言いがたいものだった。
それでも会場となったホテルには、シンポジウム開催の数時間前から約200名の出席者が続々と集まってきた。ロビーには3日後の11月1日に控えたホテルの正式再オープンを祝う花が、ところ狭しと並んでいた。
「大変ご無沙汰しております」ホテルの職員たちがシンポジウムの来場者たちににこやかに語りかける。平らな土地が続く陸前高田の海沿いで、ここだけは華やいだ雰囲気に包まれていた。
10月13日は「国際防災の日」
10月29日に開かれた「障害者と防災シンポジウム」の主催は、国連国際防災戦略事務所(UNISDR)駐日事務所、日本財団、日本障害フォーラム(JDF)である。毎年10月13日は国連により「国際防災の日」と定められており、2013年のテーマは「障害とともに生きる人々と災害」。その記念シンポジウムの会場として陸前高田が選ばれたのだ。
2015年3月には宮城県仙台市で第3回「国連防災世界会議」が開催される。その大イベントを前に、「誰もが住みやすいまちづくりのあり方」を被災地である陸前高田で議論し、国際社会に提言していこうという試みだ。
岩手県内で最大の犠牲者が出た陸前高田市は、現在、戸羽太市長が掲げる「ノーマライゼーションという言葉のいらない街」を合言葉に復興の道を歩んでいる。これは「障害のある方もない方も、ともに生きる共生社会を実現しよう」というものだ。
シンポジウム開会の挨拶で戸羽市長は次のように述べている。
「残念ながら2011年3月11日の震災によって、陸前高田市の市街地はなくなってしまいました。なくなったということは、ゼロから作る。道路も公共施設も一つ一つの店も、これから作っていくわけです。目の不自由な方、体の不自由な方が自分の意思で買い物、遊びに出かけて自分の人生を謳歌できる、より質の高い生活ができる地域にしていきたい」
不幸な震災の経験を教訓として生かすためにも、ここ陸前高田でシンポジウムが行われたことは非常に有意義だといえるだろう。
シンポジウムには、国連事務総長特別代表(防災担当兼UNISDRヘッド)のマルガレータ・ワルストロム氏も出席している。ワルストロム氏によると、UNISDRは「障害者と災害」に関しての国際的な調査を始めており、すでに6千人が回答したという。調査は11月末まで行われるが、現段階で約7割が「コミュニティの防災プランに対して何も知らない」と答えているとの中間発表があった。同氏は「この背景には障害者の社会的な孤立が現象としてあるのではないか」との見解を示し、防災計画段階から障害者が参加していくことの重要性をあらためて強調した。
障害者の死亡率は住民全体の約2倍
国連事務総長特別代表(防災担当兼UNISDRヘッド)のマルガレータ・ワルストロム氏(撮影・畠山理仁)
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シンポジウムの主催団体の一つである日本財団は、阪神大震災以来、29回にわたって水害、地震などの被災地に支援を行ってきた。もちろん東日本大震災でも、岩手、福島、宮城などの被災地でさまざまな支援事業を行っている。
それらの事業の一環として制作されたのが、日本障害フォーラムとともに制作したドキュメンタリー映画「生命(いのち)のことづけ」だ。この作品では、被災障害者の実態や支援活動、必要とされる施策が当事者たちの証言を中心にまとめられている。
今回のシンポジウムでもこの映画が上映されたが、その冒頭に示されたのは「障害者の死亡率は住民全体の約2倍」という衝撃的な報告だった(注)。これは「障害者手帳所持者」の死亡率であるため、実際にはこれよりも高かったことが予想される。シンポジウム会場で映画を見ていくうちに、自然と一つの疑問が浮かんだ。それは「震災前の日本社会は、障害者だけでなく、高齢者や妊婦など、一人での避難が困難な人たちへの防災対策は十分だったのだろうか」という点だ。
映画では「津波警報が届かなかった盲ろう者」「被災後も救助を待ち続けた障害者」「避難所で暴言を吐かれた障害者」「避難所への避難をためらった障害者」たちの思いが語られている。映画を見れば、先の問いに対する答えが自ずとわかる。残念ながら、既存の防災政策が障害者や高齢者への配慮を欠いていた点は否定しようがないのだ。
もう一つ、今回の震災が遺した重要な教訓がある。それは自治体の持つ要援護者の名簿が「個人情報保護法の壁」に阻まれ、JDFなどの障害者支援団体に対して速やかに開示されなかったことである。
たとえば福島県内の避難指示、避難勧告が出た地域では、情報が届かなかった障害者が現地に取り残されるという不幸な事態も発生した。JDFなどの支援団体は安否確認のために障害者名簿の開示を行政に対して求めたが、実際に開示されたのは震災から1か月以上が経過した後だったという。
自治体によっては個人情報保護法の「人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、個人の同意を得ることが困難である時」という規程から開示を決断したところもあるが、すみやかに開示されなかったことで被害を拡大させた可能性も指摘されている。こうした課題は「いつ来るかわからない災害」のために、広く社会に共有されるべきものだろう。
【注・NHKが岩手、宮城、福島沿岸部の27市町村から行った聞き取り調査による。ただし、陸前高田市の場合は震災による死亡率は市内全人口に対して7.2%(2万4246人中1750人)。障害者に限ると9.1%(1368人中124人)であるため死亡率は1.2倍となっている。これは障害者の入所施設等が、もともと市街地から離れた高台にあったことも影響している】
誰もが住みやすい街は災害にも強い
シンポジウム後半には、「障害インクルーシブな防災とまちづくり」と題されたパネルディスカッションも行われた。「インクルーシブ」と聞くと難しい気もするが、日本語で噛み砕いて言えば「分け隔てない」という意味だ。
パネリストは菅野利尚氏(陸前高田市民生部社会福祉課長)、田中陽子氏(岩手県聴覚障害者協会気仙支部長)、津田知子氏(セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン 東日本大震災復興支援事業部副部長(プログラム)兼プログラムマネージャー(子どもにやさしい地域づくり))、小山貴氏(JDFいわて支援センター事務局長)の4名。ファシリテーターは藤井克徳氏(日本障害フォーラム幹事会議長)である。
はじめに行政の担当者である菅野氏からは、「震災以前の対策は、防災の視点が極めて弱かった。今思えば無力だったと感じている」との反省の弁が述べられた。それを踏まえた上で、平時から障害者が避難訓練等に積極的に参加することが提案されている。これは障害者が必要とする支援を地域全体で把握しておくことで、障害者支援のネットワークを形成する狙いがある。ふだんから地域住民が障害者とともに生きていることを意識していれば、災害時にも必要な支援が得られるという教訓だ。
一方、自身も聴覚障害者である田中氏からは、避難所での意思疎通の難しさが実体験として語られた。そこでは震災前に聴覚障害者団体の要望により設置されていた字幕付き警報ランプが津波によって流されてしまうなどの課題も指摘されている。また、震災前は消防署から送られていた注意喚起の情報メールが現在は機能しなくなっていること、福祉避難所設置の要望などが当事者の視点からなされている。
従来の防災計画は「屈強な大人の論理」ではなかったか
パネルディスカッションのファシリテーターを務めた藤井氏の言葉も強く印象に残った。
「障害者の権利条約では、特別な権利、新しい権利は一つも言っていません。他の者との平等、一般市民との平等を言っています。しかし、今般の災害では、障害を持った人の死亡率は2倍です。まるで生命が半分のように感じられた。これは天災だけでは考えられない。人災が関わったと言っても過言ではない。障害者に対する防災政策がほぼなかった原因としては、屈強な大人を中心に構成されてきたからではないか」
その言葉を受け、被災地で子どもたちを支援する取り組みを続ける津田氏からは、「子どもも権利の主張者である」として、子どもたちの意見をまちづくりに生かしていくための取り組みが紹介された。セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが岩手・宮城両県5地域の小学4年生〜高校生約1万1千人を対象に行なった調査(2011年5〜6月)では、約9割が「自分たちのまちのために、何かしたい」との回答を寄せている。それを受け、市町村の復興計画やまちづくりに子どもたちの声が反映されるよう、自治体や国などに対して政策提言を実施してきたのだ。
また、JDFいわて支援センター事務局長の小山貴氏は、「加齢による身体機能の低下は誰にでもやってくる問題。すべての人が災害弱者になると言っても過言ではない。そうした時に必要な支援は、障害のある方もない方も同じように保障されるべきである」と、すべての人にやさしいまちづくりを訴えた。すべての人がともに快適な暮らしを送るために必要なのは、建物の段差解消などのハード面だけではない。一番大切なのは「人々の意識」というソフト面である。
人々の考え方がバリアフリーでなければ、障害者は安心して街を歩けない。また、障害を持たない人も、日常的に障害者と接する機会を持たなければ、いざというときにどう接すればよいか戸惑ってしまう。つまり日常生活が「ノーマライゼーションの必要のない社会」になっていれば、自然と「災害時にも強い地域社会」が形成されるのである。
机上の空論に終わらせないために不可欠なもの
今回、会場に集った約200名の参加者の中には、車椅子での参加者も多くいた。ろうあ者のための手話通訳や、発表者の発言を要約して映し出すスクリーンも整えられた。もちろん壇上へのスロープも用意されていた。障害者を中心とする団体が主催者側にいるシンポジウムだけあり、障害者にとっても参加しやすく、理解が深まる貴重な機会であったことは間違いない。
しかし、この会場を一歩出た時、現在の日本社会が障害者をこのように包括できているかと言えば疑問が残る。それは会場の参加者からなされた次の提案を見ても明らかだろう。
「市の復興事業に入札する事業者、復興作業に従事する人たちには、すべて障害者疑似体験を義務付けるぐらいにしてほしい。そうでなければ『すべての人にやさしいまちづくり』など、いつまで経っても『机上の空論』になってしまうのではないか」
そこには「障害のある者とない者の相互理解」が不十分であることへのいらだちが感じられる。このような不安や不満を解消するためにも、今回のようなシンポジウムには、より多くの「障害を持たない者」の参加が不可欠になるだろう。
「ノーマライゼーションへの第一歩は、障害を持った人の立場に近づこうとする努力です」
これはパネルディスカッションでファシリテーターを努めた藤井氏の言葉だ。障害を持つ人、持たない人の双方が歩み寄り、日頃から交流して「心の壁」を取り去っていくことが「災害に強い社会」への近道となるはずだ。
2013年11月21日 08:03(取材協力:日本財団)