マスコミが持ち上げて叩くから、すべてマスコミが悪いという論調が未だに多いが、マスコミは営利を追求する民間企業なわけで、国民が見たいと思っているものを取り上げているに過ぎない。よくマスコミをマスゴミという言い方で揶揄するが、マスコミがゴミだとするなら、国民がゴミだということだ。マスコミも政治家も企業もすべては国民の鏡に過ぎない。
国民が取り上げてほしい3大対象といえば、障害者、女性、子供である。これを取り上げれば国民の多くは無批判に飛びつく。マスコミが全聾と称した作曲家、佐村河内守氏を過大に取り上げたのも、「普通の」単なるおっさん作曲家ではなく、障害者だからだ。そして見事に国民の多くは飛びついた。「障害者なのにすごい」と。
万能細胞騒ぎも同じだ。世に発表されるや否や、マスコミが強調したのが研究成果ではなく、「女性」研究者であることや「リケジョ」といったことだ。研究の中身なんかより「女性」であることにマスコミ的価値がある。それはマスコミがゴミというより国民がゴミだからだ。だからマスコミは国民が受けるように女性を強調する。
その証拠に佐村河内守氏を擁護する声はほとんどないのに、小保方晴子氏を擁護する声は非常に大きい。むしろ叩くマスコミが悪いみたいな。
なぜか。佐村河内守氏は障害者ではなかったから、「普通の人」だったからバッシングされるが、小保方晴子氏は女性だからバッシングされない。障害者、女性、子供。国民が無批判で持ち上げたがる対象から外れていないからだ。
だからもし佐村河内守氏が作曲はしていなくても、全聾というのが本当で、涙ながらに記者会見して、障害者であることをアピールし、国民に同情させる訴えをすれば、他人に作曲させて自分の名前で出す詐欺を働いたとしても、一部の国民は同情したのではないか。「障害者だから仕方がない」。「全聾だから仕方がない」。しかし佐村河内守氏の場合は全聾であることが虚偽であったために、国民から大バッシングを受けることになった。
それにしてもなぜ国民は障害者、女性、子供を無批判で持ち上げたがるのか。自分より下の存在だと思っているからだ。上から目線。かわいそうな障害者。実力のない女性、子供。そんな弱者ががんばって活躍しましたということに安心して応援できる。弱者で下の存在だから、嫉妬心を抱かずにすむ。被災者なんかも同じだ。
しかしもしこれが「普通の人」だったらどうだろうか。「普通の人」の成功や活躍をむしろ妬む人が多いのではないか。自分の存在が脅かされてしまうライバルとして警戒するのではないか。
身体障害一級でては使えず、足はあるが歩けない車椅子の、まるみえ星人こと柴野さんに話を聞いた時、こんな話をしていた。
「障害者は自分より“下の存在”。だからかわいそうなので助けてあげるという思考の健常者の人ほど、自尊心が低く、下の存在を庇護することで、自尊心を満たしているのではないかと感じることもあります」
障害者という言葉を女性や子供に置き換えても十分通用する。障害者、女性、子供を無批判に持ち上げたがる国民は、障害者、女性、子供をバカにしているのだ。力のないはずのあんたたちがよくできましたね!と。それは自分の弱さを正当化するためでもある。
マスコミが持ち上げて叩くのは国民のニーズがあるから。ニーズがなくなればマスコミは取り上げなくなるだろう。なぜなら「売れない」からだ。鶏が先か卵が先かみたいな話はあるにせよ、売れないものはマスコミは取り上げない。売れるからマスコミは取り上げる。売れるとはすなわちそれを望んでいる国民がいるからに他ならない。
マスコミも悪いがマスコミだけ悪いといっていても、何の問題解決にはならないだろう。
障害者、女性、子供だからという理由だけで、無批判に持ち上げていませんか?
2014年03月17日 08:55 BLOGOS
国民が取り上げてほしい3大対象といえば、障害者、女性、子供である。これを取り上げれば国民の多くは無批判に飛びつく。マスコミが全聾と称した作曲家、佐村河内守氏を過大に取り上げたのも、「普通の」単なるおっさん作曲家ではなく、障害者だからだ。そして見事に国民の多くは飛びついた。「障害者なのにすごい」と。
万能細胞騒ぎも同じだ。世に発表されるや否や、マスコミが強調したのが研究成果ではなく、「女性」研究者であることや「リケジョ」といったことだ。研究の中身なんかより「女性」であることにマスコミ的価値がある。それはマスコミがゴミというより国民がゴミだからだ。だからマスコミは国民が受けるように女性を強調する。
その証拠に佐村河内守氏を擁護する声はほとんどないのに、小保方晴子氏を擁護する声は非常に大きい。むしろ叩くマスコミが悪いみたいな。
なぜか。佐村河内守氏は障害者ではなかったから、「普通の人」だったからバッシングされるが、小保方晴子氏は女性だからバッシングされない。障害者、女性、子供。国民が無批判で持ち上げたがる対象から外れていないからだ。
だからもし佐村河内守氏が作曲はしていなくても、全聾というのが本当で、涙ながらに記者会見して、障害者であることをアピールし、国民に同情させる訴えをすれば、他人に作曲させて自分の名前で出す詐欺を働いたとしても、一部の国民は同情したのではないか。「障害者だから仕方がない」。「全聾だから仕方がない」。しかし佐村河内守氏の場合は全聾であることが虚偽であったために、国民から大バッシングを受けることになった。
それにしてもなぜ国民は障害者、女性、子供を無批判で持ち上げたがるのか。自分より下の存在だと思っているからだ。上から目線。かわいそうな障害者。実力のない女性、子供。そんな弱者ががんばって活躍しましたということに安心して応援できる。弱者で下の存在だから、嫉妬心を抱かずにすむ。被災者なんかも同じだ。
しかしもしこれが「普通の人」だったらどうだろうか。「普通の人」の成功や活躍をむしろ妬む人が多いのではないか。自分の存在が脅かされてしまうライバルとして警戒するのではないか。
身体障害一級でては使えず、足はあるが歩けない車椅子の、まるみえ星人こと柴野さんに話を聞いた時、こんな話をしていた。
「障害者は自分より“下の存在”。だからかわいそうなので助けてあげるという思考の健常者の人ほど、自尊心が低く、下の存在を庇護することで、自尊心を満たしているのではないかと感じることもあります」
障害者という言葉を女性や子供に置き換えても十分通用する。障害者、女性、子供を無批判に持ち上げたがる国民は、障害者、女性、子供をバカにしているのだ。力のないはずのあんたたちがよくできましたね!と。それは自分の弱さを正当化するためでもある。
マスコミが持ち上げて叩くのは国民のニーズがあるから。ニーズがなくなればマスコミは取り上げなくなるだろう。なぜなら「売れない」からだ。鶏が先か卵が先かみたいな話はあるにせよ、売れないものはマスコミは取り上げない。売れるからマスコミは取り上げる。売れるとはすなわちそれを望んでいる国民がいるからに他ならない。
マスコミも悪いがマスコミだけ悪いといっていても、何の問題解決にはならないだろう。
障害者、女性、子供だからという理由だけで、無批判に持ち上げていませんか?
2014年03月17日 08:55 BLOGOS