『週刊文春』の頑張り効果もあり、ここのところ、いかにもワイドショー的なスキャンダルが続出し、マスメディアやネットを賑わしている。年明けの「ベッキー×ゲス乙女不倫」から始まり、「イクメン議員ゲス不倫」、「ショーンK学歴・経歴詐称問題」を挟み、今度は5人の女性と不倫していたという「ゲスの極み乙武」と、今年の流行語は「ゲスで決定!」の勢い。たぶん10年後くらいに2016年を振り返ったら、「あれはゲスな年だった」とか総括されるのかもしれない。
個人的にはゲスな話題は嫌いではない。そもそもワイドショーやら、週刊誌やら、スポーツ紙などは、「ゲスの極み」を追求するメディアだし、大衆とは、ゲスが大好きな人種なのだ。また、ゲスな話題に人間の本性が表れるという側面もある。しかし、ワイドショーや週刊誌と言っても、そこは仮にもメディアである。ネット民がゲスな話題でゲスに騒ぐのとはワケが違う。メディアにはやはり「メディアの正義」というものがあってしかるべきで、その正義とは「本質を議論する」ということだと思う。その視点から言えば、一連のスキャンダルに関してはあまり本質的な議論がなされていない。
ショーンK問題の本質については、当連載の第153回記事でも論じたが、今回の乙武氏不倫問題に関しても、ほとんど本質論が議論されていない。
タブー視されてきた「障害者の性」
乙武氏不倫問題の本質はふたつある。ひとつは「障害者の性」の問題だ。今回の騒動で社会に対して明確になったことは、「障害者だって性欲がある」ということだ。これは言われてみれば当たり前のことだと思うだろうが、実際には日本の障害者支援の文脈では完全に無視されてきた問題である。もうほとんど「障害者には性欲というものがない」という前提で進められてきたと言っても過言ではない。というか、そのような問題を議論すること自体がタブー視されてきたと思う。
その証拠に、「障害者ネタ」はテレビや新聞などメディアの定番ネタで、障害者支援の団体や取り組みの多くが頻繁に紹介されている。日本テレビの『24時間テレビ』でも数多くの障害者が登場して、彼ら彼女らの奮闘ぶりを称えるVTRを流したりしているが、メディアの中で障害者の性が正面切って取り上げられることはほとんどなかった。
欧米には障害者の性処理を行なうNPOがあるし、日本にも障害者の性問題に取り組む「ホワイトハンズ」という団体もある。こちらの団体のウェブサイトのメディア掲載履歴を見ると、最近はテレビメディアも障害者の性問題に少しは関心を持つようになってきたようだが、まだまだ一般の認知度も、理解も足りない。
ゆえに今回の乙武氏不倫問題は、まだまだ理解が足りない障害者の性問題を一気に社会的イシューへと引き上げる千載一遇のチャンスだった。にもかかわらず、メディアもネット民も、乙武氏の性癖の問題に(単なる好奇心として)矮小化するだけだ。
また、乙武氏自身も、この問題を社会問題へと昇華させる気がないように感じる。乙武氏はこの障害者の性問題のまさに当事者中の当事者なのだから、これを機会にこの問題を広く深く社会で議論するきっかけとなってほしいと思う。だが、これについては後日改めて論じたいと思う。
「妻が母になったから不倫」という男性バイアス
乙武氏不倫問題のふたつめの本質は、彼自身が発言しているように「妻が母になったから不倫した」問題だ。これは、妻が妊娠中(しかも臨月!)に不倫したことがバレて議員辞職するハメになったイクメン(元)議員の宮崎謙介氏の一件にも通底するが、そもそも「妻が妊娠中の不倫」は妻からすれば最も許せない行為であるし、「妻が母になったから不倫した」、つまり「女性としての魅力がなくなった」というのは、最大の侮辱である。
乙武氏が釈明の弁の中でこのような言葉を使うこと自体、彼の中に強い「男性バイアス」を感じ取ってしまうのだが、これは彼だけの問題ではない。いまだに日本の男どもにはびこる女性蔑視というか、女性無視のメンタリティの表れである。
要するに、日本の男どもはいまだに、女性とくに妻に対してリスペクトというものがない。だからこのような発言が出てくるし、こうした発言がそれほど大きな問題とならない(むしろ、よくある話だと納得する男性のほうが多いのではないだろうか)。その証拠に、今回の件では乙武君批判もあれば擁護の発言も多いが、この「妻が母になったから不倫」発言を問題視している発言は少ない。その少ない発言のほとんどは女性からのもので、男性の論客でこの発言問題を大きく取り上げた人間は(少なくとも僕が見た限りでは)ほとんどいない。
そして、この「妻が母になったから不倫」発言がたいして大きな問題にならないところに、実は日本の「少子化問題の本質」が潜んでいるのだ。日本の少子化問題は、本質がほとんど議論されていない。少子化対策と言えばほとんどの場合、保育園と産休/育休の話題ばかりだ。もちろん、イクメンが増えることも、男性が育休を取ることも大事だ。しかし、イクメン/育休も、女性へのリスペクトが背景になければ形骸化どころか、下手すれば不倫のカモフラージュにさえ利用されることは、ゲス不倫のイクメン(元)議員が証明して見せたではないか。
議論がなされない、保育士の給料が上がらない理由
また、保育所問題、待機児童問題についても本質的な議論がほとんど出てこない。ご存じのように「保育園落ちた日本死ね!!!」と書かれた匿名ブログがメディアでも話題となり、民主党(当時。現在は民進党)の山尾志桜里議員が衆院予算委員会で取り上げ、安倍総理に厳しく迫ったことも大きなニュースとなった。
ちなみに、「この匿名ブログを書いたのは熊本県在住のいわゆる“プロ市民”である」との追及がネットで吹き上がった。その一方で、この匿名ブログを取り上げた山尾議員に対しても、『週刊新潮』が「山尾志桜里代議士の奇妙な政治資金」と題し、資金管理団体をめぐる不透明な寄付金問題を特集。さらに、産経新聞などは「地球5周分に匹敵する疑惑のガソリン代」と山尾議員の経費問題を追及する記事も掲載された。
このように保育問題があらぬ方向へと向かい、ほとんど場外乱闘の様相を呈しているが、その保育問題も「保育士の給料を増やせ」とか「保育関係の予算を増やせ」とか、金の話ばかりだ。もちろん、保育士の給料が上がることは良いことだし、予算が増えることも悪くはない。しかし、保育問題の本質は本当に金の問題だけなのか。
たとえば、保育士の給料が安いと言われ、安いから離職率が高くて保育士が足りない、だから待機児童が増えるという「文脈の議論」ばかりが横行しているが、本当に保育士の給料は安いのか。安いとすれば、上がらない本当の理由は何か。その議論がほとんどされていない。
そうした状況の中で、とあるブログがちょっとした話題になっている。「保育園落ちた、日本死ね → 死ぬべきは既得権益のみなさんだったよ」という記事だ。要するに「いまの保育問題の根源は、既得権益者、つまり認可保育園を運営する社会福祉法人にある」という指摘だが、この記事の元ネタとなっているのが2009年11月に掲載された『ダイヤモンド・オンライン』の記事「新規参入は断固阻止!! 保育園業界に巣くう利権の闇」である。
この記事によれば、認可保育園は、認可外保育園がもらうことのできない巨額の施設整備費を受け取っているだけなく、潤沢な保育費用を補助金としてもらっているという。たとえば東京都の場合、0歳児1人当たりに対して、私立認可保育園で約30万円、公立では約50万円を毎月補助しているそうだ。
にもかかわらず、なぜ保育士の給料が安いと言われるのか。実態はどうなのか。平成26年度の厚生労働省の賃金構造基本統計調査を元にした、保育士を目指す人のための情報サイト『保育士の仕事』によると、下記のとおりだ。
*以下、保育士を目指す人のための情報サイト『保育士の仕事』掲載記事「保育士の給与・年収」より引用。
◎保育士の平均年収統計
平成26年度の厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、保育士の平均年収は34.7歳で310万円ほどとなっています。
・平均年齢:34.8歳
・勤続年数:7.6年
・労働時間:168時間/月
・超過労働:4時間/月
・月額給与:216,100円
・年間賞与:573,800円
・平均年収:3,167,000円
出典:厚生労働省「平成26年度 賃金構造基本統計調査」
※平均年収は、きまって支給する現金給与額×12ヶ月+年間賞与その他特別給与額にて計算。
※本統計はサンプル数が少ないため、必ずしも実態を反映しているとは限りません。
これによると、保育士の平均収入は月収で約21万、年収で約310万円。しかしこの数字は、公立、民間を含め、様々な保育園のケースが含まれていて、世間で言われている保育士の給与実態よりも高いものと思われる。僕が実際に保育士にヒアリングしたケースでも、学校法人や認可保育園であっても給料は月10万円台と聞いている。理屈のうえから言っても、保育士の給与実態はやはり安すぎると思われる。
保育ビジネスに横たわる欠陥
では、「本来払われるべき給与」と「実態」との乖離はなぜ起きるのか。業界の体質も含めたビジネス構造に何かしらの問題、欠陥があるのではないか。その根本的な問題を明確にしない限り、山尾議員が主張したように、保育士の給与を一律5万円上げたところで根本的な問題解決にはならない。
たとえば、保育士の給与を上げるためには、「補助金を増やすか、保育料を上げるしかない」と保育問題の専門家は唱える。しかし、保育所というものは基本的にサービス業だ。サービス業のコストは、基本的に場所代と人件費。つまり収入が一定の場合、場所代を減らせば人件費を上げることができる。つまり、保育士の給与問題は「保育園の立地コスト問題」としてもっと論じる必要がある。また、皆さんもご存じのとおり、待機児童問題はとくに東京など都市部で深刻だ。にもかかわらず、都市部のほとんどは立地コストが高い。ここを解決しなければ、保育所問題も抜本的に解決できないだろう。ビジネス構造を変えるのは、そういう本質的な議論をするということだ。
そのためのひとつの方策としては、「廃校の利用」が考えられる。たとえば、東京23区では2002年から2006年にかけて、52校もの小中学校が廃校となっている。千代田、中央、港、新宿、文京、台東、渋谷の都心部だけでも13校だ。しかし、このレポートを見ても、文科省の「みんなの廃校プロジェクト」の「廃校施設等活用事例リンク集:児童・高齢者などのための福祉施設」のリストを見ても、保育所としての事例は一件のみ。廃校が保育所として積極的に活用されているようにはとても思えない。
最近も旧都立市ヶ谷商業高校の跡地利用をめぐり、「保育所を!」という地元民の要望を無視して、桝添都知事が韓国人学校を作るために韓国政府に貸与を決めたとして猛烈な抗議活動が起きているが、この一件を見ても、文科省も地方行政も保育所問題の抜本的な解決に取り組んでいるとは思えない。
問題はその理由だ。学校行政は文科省の管轄で、保育は厚労省の管轄だからなのか。あるいは、前述の『ダイヤモンド・オンライン』記事に加え、保育問題に取り組む一部の人たちから指摘されているような「地方行政と認可保育園(既得権益者)の癒着」が原因なのか。たぶん、原因はひとつではないのだろう。いろいろな権益、権限が重なり合って、保育サービスのイノベーションを阻んでいるのだと思う。
保育行政に必要な 極端で思い切った「視点の変換」
それを解決する方法は「規制緩和」しかないのだが、保育行政においてはすでに株式会社の参入という規制緩和が行なわれている。しかし、実際にはこの規制緩和策も効果を上げていない。
その理由については、保育ビジネスを手がけるJPホールディングスの山口洋社長が、『現代ビジネス』のインタビューに対して、待機児童が減らない大きな理由として「社会福祉法人の問題」を述べている。山口氏によれば、待機児童問題が解決しない大きな理由は「社会福祉法人と地方行政が結託して新規参入を阻んでいる」からだという。
たとえば、世田谷区は待機児童ワーストなのに株式会社の保育ビジネス参入を認めていないという。これが保育業界の実態だとすれば、保育行政は地方行政の仕事なので、いくら国が規制改革して保育問題を解決しようとしても無駄ということになる。では、どうすればよいのか。
保育問題の本当の敵が巨大な既得権益だとすれば、それに匹敵する大きな対抗勢力を作ればよい。本来、その対抗勢力とは民間(企業やNPO)なのだが、保育行政に対して民間が無力だとすれば、その対抗勢力は行政の中に作るしかない。たとえば、経産省だ。保育というのは福祉行政でこれは厚労省の仕事だが、「新しい保育ビジネスの育成」という視点で保育問題を考えるというわけだ。「産業の育成」は経産省の仕事なので、経産省が保育ビジネスに関われるように規制改革すればいい。
いわば、従来からある厚労省主導の保育行政に、経産省主導の保育ビジネスをぶつける。どちらが保育問題を本当に解決できるか競わせる。競争はイノベーションの源泉だ。保育ビジネスにもイノベーションが必要だとすれば、どこかで強力な競争原理を導入する必要はあるだろう。
そのために政府は2000年に規制改革して、株式会社が保育ビジネスに参入できるようにしたはずなのだが、15年経ってもこの問題は解決できなかった。もうこの規制改革は失敗したということなのだから、改革のためには「さらなる改革」が必要だろう。それは単に補助金を増やすことではないはずだ。
僕の周辺にも、保育問題に取り組み、保育の新しいイノベーションを起こそうとする若き社会起業家がたくさんいる。そのような人間の情熱も力も、いまの業界の体質や行政が活かせないのであれば、それを活かせる新しい行政が必要だろう。経産省の例は単なる思いつきだが、しかし、それくらい極端で思い切った「視点の変換」がこの国の保育には必要なのだと思う。
2016年4月5日 ダイヤモンド・オンライン