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障害者が社会人として自立するために 〜 越えてきた壁の数だけ強くなれた 前編

初瀬:ラグビーと柔道は怪我が多いと言われる代名詞のような競技ですが、そのラグビーの練習中に三阪さんは障害を負われました。

 以前にこのコラムに取り上げられているので(記事参照)重複する部分はありますが、初めての読者さんもおられるので高校時代に怪我を負うところからお聞かせいただけますか。

三阪:僕が生まれ育ったところは高校ラグビーで有名な「ラグビーの町」と呼ばれる東大阪市です。

 お正月になると全国大会の会場になっている「花園ラグビー場」から声援が聞こえてくるようなところで生活にラグビーがあるのが当たり前の環境だったのです。

 当然のように中学ではラグビー部に入り、どっぷりはまって布施工業高校(現布施工科高校)に入学しました。

初瀬:大阪は日本有数の激戦区とお聞きしていますが、その中でも特にラグビーが身近にあるような環境だったわけですね。野球よりもラグビーが身近にあるなんてとても珍しい。三阪さんがラグビーをやることも必然だったということかもしれませんね。

 それで怪我は何年生のときに?

三阪:僕らも全国大会を目指して毎日激しい練習をしていました。そんな中、事故は高校3年生の6月に起きました。こぼれたボールに飛び込んで、ボールを抱えて起き上がろうとしたときに他の選手が倒れ込んできたんです。首の骨を脱臼骨折して頸髄損傷という大事故になりました。

 すぐに救急救命センターに運ばれて緊急オペです。集中治療室で目を覚ましてから後の約3カ月間は寝たきりでした。ある日突然身体を動かすことができなくなり、寝返りも打てず、自分でご飯を食べることすらできなくなりました。のどが渇いて飲み物を取ろうとしても落としてしまったり、何をするにもナースコールをしなければならない辛い毎日を送っていました。

初瀬:その辛さはよくわかります。僕の場合は身体は動いたのですが、視力を失ったので何もできなくなってしまったんです。やりたくても自分では何もできない辛さ、あの頃は何をやろうにも落ち込む一方でしたから。

 三阪さんが最初に手を動かせるようになったのは入院してどれくらい経ってからですか?

三阪:自分の意志で何かアクションを起せるようになったのは2カ月くらい経ってからでしょうか、それでも指がほとんど動かなかったので、手のひらを使ったりして……。でもまだ何もできないのと同じような状態です。

 首の骨が固まるまではベッドで寝返りをして、というか、させられて、テレビを見て、そのほかは何もしないで1日が終わっていく毎日でした。

初瀬:少し落ち着いてきて回復期に向かうその時期は精神的にも不安定でとても難しい頃じゃないですか。自分でもそれをコントロールできないだろうし、人に会うのも煩わしいし、かといって一人でいても先々のことを考えて不安が募るばかりでしょう。

 僕みたい身体が動けばまだいいのでしょうけど……

 リハビリはいつ頃から始めたのですか。

三阪:首が固定したので3カ月後にリハビリ病院に転院しました。当時は何も知識が無く、元に戻るためのリハビリかと思っていたんです。でも、初日の検査で「はっきり言ってしまうと2度と歩けるようにはならないでしょう。これからは車椅子での社会復帰、日常生活に戻れるようにリハビリをしていきましょう」と告げられました。

 この長かった入院中に作業療法士の先生から車椅子ラグビーのことを教えてもらい、退院してすぐにできたばかりのWest Japan(現在活動休止中)というチームに入ることになるんです。

初瀬:入院している時から車椅子ラグビーをやろうとしていたんですか!? 同じラグビーと名前が付いていても競技性がずいぶん違うと思うんですが、ラグビーで怪我をしているのに、よく入院中からまたやろうと思いましたね、その気持ちがすごいと言うか不思議です。

 そもそもラグビーみたいにあんなに痛そうなスポーツをなぜしたいのかなと思います(笑)。柔道は激しいように見えても人と人がぶつかり合うことはないし、ラグビーほど痛くはない。ラグビーやっている人は勇気があるなぁと思います。そうでなければリハビリ入院中にもかかわらず車椅子ラグビーをやろうとは考えません。

 ところで高校には戻れたのですか?

三阪:8カ月間入院していたので同期は卒業していました。最初は退学しようと思っていたんです。学校はバリアフリーでもないし、工業高校だったので実習なんかできるわけない。「どうやってクレーンのボタンを押して鉄筋運ぶんですか?」なんて先生に当たったりもしました。それに「フルタイムで学校に行ける自信もない」と言ったところ、怪我までの期間に取得している単位にプラスして、残りの単位を取るという方法や車で通学するという特別な許可をもらい、個人授業のような形で授業を受けさせてもらいました。それが復学できたポイントです。

初瀬:自分で自動車の免許を取って通ったということですね、凄い高校生だ。

 学校側はずいぶん柔軟な対応をしてくれたようですが、理解者がいる反面、きっと一部には逆の意見もあったと思うんですよ、一人だけに特別対応はできないとか……。

 それでも学校側はサポートしてくれたんですから、三阪さんの復学は先生やラグビー部に恵まれたからこそできたのかもしれません。

 卒業後はどうしたのですか。

三阪:最初に紹介されたのが職業訓練校ですが、 事故があってから高校を卒業するまであまり自分の障害と向き合う時間がなく生きてきたんです。そこで休息が欲しいと思いまして空白の1年間を作りました。次のことを考えるとか、生活に慣れるとか、将来のことを見据えた時間を過ごそうと考えたのですが、そういう時間はだらだらしているうちに過ぎてしまうもので、そろそろ次の年度が始まるぞという時期になって、このままでは過ごした時間が無駄になると思ったんです。

初瀬:健常な人には普通のことでも、障害を負うといろいろなことが壁になりますから、社会復帰するには時間がかかります。僕にも外に出るのが怖かったり、人に会うのが嫌で引きこもり状態のような時期がありましたから、その気持ちはよくわかります。その反面自身を見つめる時期でもあります。それは必要な時間なのかもしれませんよ。

三阪:探り探り過ごした1年でした。本腰入れて何かをしなければ、と思って職業訓練校に行く準備を始めていた頃に車椅子ラグビー連盟の会長さんに「ニュージーランドで車椅子ラグビーの留学をしてみないか」と誘われたんです。

 両親には「無理に決まってる」と反対されましたが、自分は甘い人間なので誰も助けてくれない環境に行くのがいいと思って3日後には「行きます」と返事をしていました。

 1回目の留学は4カ月間。ラグビーと英語を学びに行きました。

初瀬:自ら考え決断し行動すれば自分が変わります。我々障害者の場合は特にそれが必要で、行動することによって自分が変わっていくことを実感できます。三阪さんの場合は変わるキッカケが車椅子ラグビーの留学だったということです。

 留学先ではラグビー中心の生活だったんですか?

三阪:練習は個人トレーニングを含めて5時間ぐらいで勉強は10時間ぐらいやっていました。午前中は語学学校へ行き、午後3時ぐらいまではトレーニングする日と図書館で個人勉強する日がありました。夜はチーム練習、その後家に帰ってご飯を食べて、お世話になっている家族に今日一日こんな勉強をしましたと英語で披露する時間がありました(笑)。

初瀬:障害の受容というのは時間をかけて徐々に徐々に受け入れていくもんだと思うのですが、三阪さんは、ニュージーランド留学に行って受容のスピードが早まったということですか? それとも行って、初めて受け入れ始めたということですか?

三阪:僕は入院中に自殺未遂を2回図っています。死ななかったし、死ぬ勇気がなかったんです。それは生きたいということだし、この体で生きていくんやと自分が決めたということです。ここが受容の始まりです。だからこれでもう大丈夫というような受容はありませんでした。

 留学に行って自分と同じ境遇の人たちと出会うことによって、車椅子生活になってもいろいろな選択肢があることを知り、生きる意味があることに気づいていくんです。だから自分にも何かができるかもしれないと思うようになりました。

 それに留学先の車椅子ラグビーチームは、障害者のスポーツを超えてものすごい意識の高さでやっていたんです。その中では自分が障害者であることを感じない生活がありました。 留学前に考えていた難しいことも、考え方ひとつで変えられることを学びました。

 それで「日本でもチャレンジしてみよう」と意識が変わったのが一番大きな受容だったと思います。

初瀬:やはりニュージーランドに行ってから加速度的に変わっていったということですね。僕の障害受容は柔道によるものですが、障害を受容するためにスポーツはとっても大事なんです。まずは外に出るキッカケができます。それに同じ境遇の仲間ができます。一人でいるとどうしても悪いほうに考えて、世の中は健常者ばかりで障害者は自分だけなんて感覚にも陥ります。でも外に行ってそういう環境に入ると色々な障害をもった人に出会ったりもします。お互いが自分の障害を話すことによって、大変なのは自分だけじゃないんだってことに気がつくんです。

 障害者は挫折の繰り返しですが、スポーツは小さな成功体験の積み重ねなんです。健常者から途中で障害者になった場合、三阪さんのようにスポーツを通して障害の受容が加速度的に進むケースは多いんです。

三阪:自分の生きる道を見つけるためのツールとして、車椅子ラグビーは大きな意味を持っていたと思います。帰国後、周りが驚くほど自分が変わっていました。

 その後、埼玉の国立リハビリテーション病院の職業訓練校に通いました。

初瀬:自分で行動すれば何かを変えることができるんです。そういうのを実感している人は健常者よりも障害者の方が多いと思います。常にチャレンジしている状態ですから。

 障害者は何をするにしても選択肢が少ないんですよ。家の中で引きこもるにしても誰かがサポートしてくれなきゃ何もできないし、買い物にも行けません。行動せざるを得ないんです。それで自分から行動してみるといろいろなことが変わってくるんです。

三阪:職業訓練校ではパソコンを使って経理事務ができるように日商簿記2級を取得して事務作業に必須なワードやエクセルの検定を受けました。障害者雇用は枠が少ないですから取り合いになるわけですよ。何で見比べられるかというと資格の有無とスキルです。障害者雇用は資格で勝負しなければなりません。

初瀬:僕なんかはエントリーシートを100社以上に送っても、全然だめで面接まで行けたのはたったの2社だけですよ。障害者が就職するのって狭き門ですからね。

ところで三阪さんは職業訓練を受けながら車椅子ラグビーをされていたわけですが、日本代表にはいつ選ばれたのですか。

三阪:2003年に初の日本代表入りをしたのですが、翌年のアテネ・パラリンピックで世界の凄さを見せつけられて全敗で帰って来るんです。その後世代交代が進むんですが、日本代表は12人の登録枠まで選手が集まらず定員割です(笑)。

 当時は日本代表の強化だけを進めて中間層の強化をしてこなかったんです。だから次を継ぐ世代がいない。極端なことを言ってしまえば、お金と時間があって手を挙げれば日の丸を背負える時代があったんです。それを見て関東だけでやっていてはいけない、もう一度関西に戻って車椅子ラグビーを根付かせたいと思ったんです。それに賛同してくれた人がいて姫路市でwebデザインの仕事をしながらラグビーを続ける環境を得ました。

初瀬:障害者スポーツっていろいろな関わり方や楽しみ方があっていいと思うんですが、どの競技にもリハビリからチャンピオンシップスポーツに分かれる転換点があると思うんです。

 選手間で温度差があるなか、アテネ以降、三阪さんたちの活躍がなければ、今の車椅子ラグビーの強さはなかったかもしれませんね。今ではメダルが期待される競技になっていますから。

 そうした活躍は安定した環境の中で両立できたからですか?

三阪:それが違うんです。webデザインの会社は仕事の折り合いがつかなくなって、大手服飾系企業の特例子会社に2007年に転職しているんです。仕事内容はパソコンを使った事務作業でした。大会等で遠征があれば出張扱いにしてもらったり、休暇を別に用意してくれたりもしました。当時は若くてスポーツができるという環境を何よりも求めていた頃なので良い条件でした。

 そのような環境の中で途中結果を出しながら北京パラリンピックを目指すことができたのですが、リーマンショック以降、僕も上司との面談で「これからは今まで通りのサポートはできない」と言われました。その後異動になり遠征の時も有給休暇で行くことになったんです。

 それに給与体系が変わってアルバイト的な条件になりました。凄い葛藤でしたが、それでも毎日遅くまで残業しながら働いていました。

初瀬:リーマンショックですか。それは大きな転換点ですね。出張扱いから、有給休暇になり、有休がなくなったら欠勤になる。どんどん条件が厳しくなっていく……。

 会社の業績の悪化に伴い条件が厳しくなって、その後どうなりましたか?

三阪:それで2010年に転職の話をいただいて、2011年の4月にバークレイズにアスリート雇用という形で就職しました。バークレイズの良いところは東京周辺で仕事をするにはお金がかかるという理解から、障害者雇用の平均賃金よりも高い金額を提示してくれたことです。遠征費は出ないのですが、ウィルチェアーラグビー連盟からのサポートを受けながら上手くやっています。ここで実感したことは、ラグビーをやってきたことが評価され仕事を得ることができたということです。障害者アスリートが認められたということでもあります。

初瀬:週に2〜3回出勤しているので会社への帰属意識がありますよね。スポンサー契約の場合は、会社への帰属意識がないからあまり良いとは言えませんし仕事のスキルが身につきません。
 出勤しないで練習や試合だけするのが仕事だという人もいますが、これはプロ契約ですね。実際にこういう障害者アスリートもいることは事実です。その逆でフルタイム出勤だけどパラリンピック等、長期の遠征で抜けるような時は特別休暇にしてくれるというケースもあります。

三阪:仕事をしていれば引退した後も企業には残りやすい。だから、フルタイムでスポーツをしている人たちは、引退後の仕事をどうするのか会社側と話し合っているのか心配になります。

 僕は引退しても今の会社で働き続けて行きたいと思っています。バークレイズの社会貢献活動の1つで、障害者に対する理解を広める活動を仕事として行っています。正式な仕事の一つとして認められているので講演をしたり、支援学校での活動を仕事として評価してくれます。

 健常者も障害者もお互いの理解が足りないと思うんです。僕たち障害者がこんなことを考え、こんなことをやってきたんだということを発信したい。そして多くの人の理解を得ていくことが必要だと思っています。

初瀬:僕は死ぬ前に障害者になってよかったという死に方をしたいと思っているんです。

 障害を負ってしまったことは仕方のないことですが、生きている以上障害者だって必ず社会に貢献できるんです。

 でもなぜ自分が障害を負ったのか、その意味は問い続けるつもりですが、答えのひとつが健常者と障害者の架け橋になることではないかと思っています。健常者だって何のために生まれてきたんだろうと考える人もいます。障害者はその思いが強いんです。パラリンピックはそういう障害者達の背景を考えながら見てほしいと思います。

ビジネスコラム -2014年01月30日(Thu)

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