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シットスキーの第一人者、車椅子ダンスに病みつきになる

もう4度目の冬季パラリンピックだ。前の3度は選手や監督として参加して雪上で活躍した。14年ロシア・ソチ。彼は一度も競技場に現れなかった。選手団ではなく、公演団の一員として着たため。

キム・ナムジェさん(52)は、韓国シットスキーの先駆者であり、代父だ。1998年長野冬季パラリンピックに太極マークをつけて出場した。シットスキー選手としては韓国初のオリンピアンだ。02年ソルトレイクシティ大会では選手兼監督だった。障害者と非障害者を合わせて雪上種目で初の銀メダルを取ったハン・サンミンを指導した。06年トリノ五輪でも代表チームの監督を受け持った。国内シットスキー選手はみんな彼の教え子と言っても過言ではない。彼はなかなか成功した非障害者スキー選手だった。雪の多い江原道横渓(カンウィンド・フェンゲ)で小学校に通ったおかげで、早くから雪と共に暮した。江陵(カンヌン)商業高校3年生の時から檀国(タングク)大学を卒業する時まで国家代表として活躍した。

特殊戦司令部(特戦司)要員として軍服務を終えたキムさんは、1989年オープンした茂朱(ムジュ)リゾートに入社した。時々スキーを教えながら会社に通うのが意外と適性に合った。役員にまで上り詰めたいという心を持っていたが、叶えられない夢になった。1992年5月4日。子どもの日のイベントを翌日に控えて、パラグライディングを練習していたところ墜落した。脊椎の随所が折れた。骨盤や肋骨を移植して脊椎の模様を整えたが、両足は動かせなかった。

スキーに乗れなくなったキムさんは絵に没頭した。1996年、大韓民国美術大展に入選した後、専業画家として活動した。4度の個人展を開き、100度が越えるグループ展示会に参加した。1996年末、シットスキーに接してから彼は雪の上に帰ってきた。10年以上シットスキーに全てをつぎ込んだ。しかし、06年トリノ冬季パラリンピックを最後に彼は静かにスキー場を離れた。

「長くやってきたという気がしました。後輩に道を開いてあげたかったです。何より新しく没頭する何かが必要でした」

キムさんは08年から車椅子ダンスを始めた。生まれつきの運動神経のおかげで、遅れて始めたわりには速く技量が伸びた。12年からアジア選手兼などで優勝し始めた。昨年9月、ロシアで行われた車椅子ダンススポーツ世界選手権大会ではフリーラテン3位、ラテン5種目で4位を記録した。世界選手権でアジア人がメダルを取ったのは彼が初めてだった。

「今年仁川(インチョン)障害者アジア競技大会に出場してメダルを取るのが目標です。そうするためには、とりあえず国家代表になるのが先でしょうね」

キムさんは17日(韓国時間)午前1時、フィシュト五輪スタジアムで開かれる閉幕式に「車椅子パフォーマー」として登場する。次期開催地の江原平昌(ピョンチャン)の大会旗の引き受けと共に彼の舞台が幕を上げる。

夢を持つ者は多いが、その夢を実現する者は少ない。スキー選手として、画家として、そしてダンサーとして…。車椅子の上のキムさんに不可能はなさそうだった。

MARCH 14, 2014 06:31 東亜日報

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