オリンピックとパラリンピック――
どうして、分かれているのでしょうか?
そもそも、分ける必要はあるのでしょうか?
オリンピックの起源は、1896年、ギリシャ・アテネ。
世界的なスポーツの大会という位置づけで、はじまりました。
パラリンピックの起源は、1948年、イギリス。
ストーク・マンデビル病院で行なわれた、ストーク・マンデビル競技大会がはじまりです。
目的は、戦争で負傷した兵士たちのリハビリとして、スポーツを推賞することでした。
時が経ち、2004年、ギリシャ・アテネ。
はじまりの場所も目的もバラバラだった2つの大会が、おなじ年におなじ場所で開催されるようになりました。
その背景には、次の考え方が世界へ広まってきたことが挙げられます。
健常者も障害者も、楽しく仲良く暮らそうよ、という趣旨の、ノーマライゼーションという考え方です。
しかし、オリンピックという勝負の場に並ぶからには、きれいごとだけでは通用しません。
パラリンピックの性質に変化が生じたことが、一番の決め手と言えるでしょう。
当初の目的であった福祉・リハビリの域を脱し、立派な“スポーツ”へと変貌を遂げたのです。
陸上競技をはじめ、車椅子バスケットボールやチェアスキーなど、競技性の高いものも多くあります。
選手たちの姿は、まさにアスリート。
そこに、“障害”の陰はありません。
“健常者”がスポーツで競うのが、オリンピック。
“障害者”がスポーツで競うのが、パラリンピック。
おなじ趣旨のもとに開催されているにもかかわらず、開会式も閉会式も、それぞれの大会で独立しています。
別々の大会として行なわれている意味が、私にはわかりません。
今までの歴史を考えれば、分けるのが道理だったと思います。
でも、そろそろ1つの大会として、一緒に行なってもよいのではないでしょうか?
「パラリンピックなんて、なくしてしまえばいい」と言うと、語弊があるかもしれません。
しかし、オリンピックとパラリンピックの統合の先には、バリアフリーやユニバーサルデザインを超越した、真のノーマライゼーションという世界が広がっているように思います。
とは言え、健常者と障害者が公平に競い合うことは、いくらなんでも無理ですよね。
“生身の肉体”と“肉体+道具”では、競技をする上で対等とは言えません。
では、各競技に種目があるように、パラリンピック枠をそれぞれに組み込んでみては、どうでしょうか?
たとえば、陸上競技。
現行のオリンピック・パラリンピックそれぞれに、100メートル、200メートル……と、おなじ種目が存在しています。
パラリンピックの場合は、障害に応じたクラス分けが加わるだけ。
元々おなじ種目があるのだから、順番を前後するだけで統合の出来上がりです。
オリンピックとパラリンピックが、ひとつになってほしい——。
そう思う理由は、「分ける理由がなくなったんじゃない?」という、実にシンプルなものです。
だって、はじめは障害者のリハビリ目的だった運動が、“スポーツ”のレベルになったのですから。
もうひとつは、心情的なものです。
オリンピックに出る選手もパラリンピックに出る選手も、皆、ひとしく努力を重ねていることでしょう。
その努力に、違いや差はないはずです。
それなのに、片や大々的にとり上げられて、一躍、時の人にまではやし立てる。
一方は、メディアにも国民にも見向きもされず、関係者の目にしか留まらない。
ようやく、テレビで報道されるようになったかと思えば、一日の放送は、小一時間にまとめられたハイライトのみ。
生中継が当たり前のオリンピックとは、雲泥の差です。
運動音痴でスポーツも全然わからない私だけれど、この状況には違和感を感じずにはいられません。
おなじ人間で、おなじように世界のトップを目指して日々、努力をしている——。
そんな選手たちを思うと、悲しくなってきます。
私が障害者だから、パラリンピックを押しているのではありません。
仮に、オリンピックとパラリンピックの立場が逆でも、おなじ思いを抱くと思います。
世の中は、常に平等とは限りません。
しかし、オリンピックがスポーツにおいて世界の一大イベントとして存在しているのなら、パラリンピックも同様に扱われるべきです。
これが、世界の流れです。
オリンピックとパラリンピックの同時期・同場所開催の先は、2つの大会の統合ではないでしょうか。
私の理想論を述べましたが、そんなに簡単な話でないことは、想像に難くありません。
すこし考えただけでも、いくつもの課題が思い浮かびました。
きっと、私には想像の及ばない、さまざまな問題があるのだと思います。
でも、想像してみてください。
オリンピックとパラリンピックが、ひとつの大会に統合された姿を——。
開会式——オリンピック——閉会式〜〜〜開会式——パラリンピック——閉会式
↓
開会式——————————オリンピック・パラリンピック——————————閉会式
開会式や閉会式を、晴れやかな笑顔で颯爽と歩く選手たちは、おなじ時間を刻んでいます。
そこには、歩いている選手、車椅子の選手、義足・義手の選手、白杖をもった選手。
さまざまな容姿のアスリートたちがいます。
目を閉じて、その光景を思い浮かべるだけで、顔がほころんできませんか?
「パラリンピック」という言葉は、1964年の東京大会のときに、日本のマスコミが生んだものです。
パラリンピックという名称を生んだ日本で、オリンピック・パラリンピックの新しい姿を魅せられたら——。
これほど世界に誇れるものはないように思います。
2014年3月19日 朝日新聞
どうして、分かれているのでしょうか?
そもそも、分ける必要はあるのでしょうか?
オリンピックの起源は、1896年、ギリシャ・アテネ。
世界的なスポーツの大会という位置づけで、はじまりました。
パラリンピックの起源は、1948年、イギリス。
ストーク・マンデビル病院で行なわれた、ストーク・マンデビル競技大会がはじまりです。
目的は、戦争で負傷した兵士たちのリハビリとして、スポーツを推賞することでした。
時が経ち、2004年、ギリシャ・アテネ。
はじまりの場所も目的もバラバラだった2つの大会が、おなじ年におなじ場所で開催されるようになりました。
その背景には、次の考え方が世界へ広まってきたことが挙げられます。
健常者も障害者も、楽しく仲良く暮らそうよ、という趣旨の、ノーマライゼーションという考え方です。
しかし、オリンピックという勝負の場に並ぶからには、きれいごとだけでは通用しません。
パラリンピックの性質に変化が生じたことが、一番の決め手と言えるでしょう。
当初の目的であった福祉・リハビリの域を脱し、立派な“スポーツ”へと変貌を遂げたのです。
陸上競技をはじめ、車椅子バスケットボールやチェアスキーなど、競技性の高いものも多くあります。
選手たちの姿は、まさにアスリート。
そこに、“障害”の陰はありません。
“健常者”がスポーツで競うのが、オリンピック。
“障害者”がスポーツで競うのが、パラリンピック。
おなじ趣旨のもとに開催されているにもかかわらず、開会式も閉会式も、それぞれの大会で独立しています。
別々の大会として行なわれている意味が、私にはわかりません。
今までの歴史を考えれば、分けるのが道理だったと思います。
でも、そろそろ1つの大会として、一緒に行なってもよいのではないでしょうか?
「パラリンピックなんて、なくしてしまえばいい」と言うと、語弊があるかもしれません。
しかし、オリンピックとパラリンピックの統合の先には、バリアフリーやユニバーサルデザインを超越した、真のノーマライゼーションという世界が広がっているように思います。
とは言え、健常者と障害者が公平に競い合うことは、いくらなんでも無理ですよね。
“生身の肉体”と“肉体+道具”では、競技をする上で対等とは言えません。
では、各競技に種目があるように、パラリンピック枠をそれぞれに組み込んでみては、どうでしょうか?
たとえば、陸上競技。
現行のオリンピック・パラリンピックそれぞれに、100メートル、200メートル……と、おなじ種目が存在しています。
パラリンピックの場合は、障害に応じたクラス分けが加わるだけ。
元々おなじ種目があるのだから、順番を前後するだけで統合の出来上がりです。
オリンピックとパラリンピックが、ひとつになってほしい——。
そう思う理由は、「分ける理由がなくなったんじゃない?」という、実にシンプルなものです。
だって、はじめは障害者のリハビリ目的だった運動が、“スポーツ”のレベルになったのですから。
もうひとつは、心情的なものです。
オリンピックに出る選手もパラリンピックに出る選手も、皆、ひとしく努力を重ねていることでしょう。
その努力に、違いや差はないはずです。
それなのに、片や大々的にとり上げられて、一躍、時の人にまではやし立てる。
一方は、メディアにも国民にも見向きもされず、関係者の目にしか留まらない。
ようやく、テレビで報道されるようになったかと思えば、一日の放送は、小一時間にまとめられたハイライトのみ。
生中継が当たり前のオリンピックとは、雲泥の差です。
運動音痴でスポーツも全然わからない私だけれど、この状況には違和感を感じずにはいられません。
おなじ人間で、おなじように世界のトップを目指して日々、努力をしている——。
そんな選手たちを思うと、悲しくなってきます。
私が障害者だから、パラリンピックを押しているのではありません。
仮に、オリンピックとパラリンピックの立場が逆でも、おなじ思いを抱くと思います。
世の中は、常に平等とは限りません。
しかし、オリンピックがスポーツにおいて世界の一大イベントとして存在しているのなら、パラリンピックも同様に扱われるべきです。
これが、世界の流れです。
オリンピックとパラリンピックの同時期・同場所開催の先は、2つの大会の統合ではないでしょうか。
私の理想論を述べましたが、そんなに簡単な話でないことは、想像に難くありません。
すこし考えただけでも、いくつもの課題が思い浮かびました。
きっと、私には想像の及ばない、さまざまな問題があるのだと思います。
でも、想像してみてください。
オリンピックとパラリンピックが、ひとつの大会に統合された姿を——。
開会式——オリンピック——閉会式〜〜〜開会式——パラリンピック——閉会式
↓
開会式——————————オリンピック・パラリンピック——————————閉会式
開会式や閉会式を、晴れやかな笑顔で颯爽と歩く選手たちは、おなじ時間を刻んでいます。
そこには、歩いている選手、車椅子の選手、義足・義手の選手、白杖をもった選手。
さまざまな容姿のアスリートたちがいます。
目を閉じて、その光景を思い浮かべるだけで、顔がほころんできませんか?
「パラリンピック」という言葉は、1964年の東京大会のときに、日本のマスコミが生んだものです。
パラリンピックという名称を生んだ日本で、オリンピック・パラリンピックの新しい姿を魅せられたら——。
これほど世界に誇れるものはないように思います。
2014年3月19日 朝日新聞