「自称」全聾の作曲家について、あるミュージシャンの意見を聞く機会があった。
「NHKスペシャルを観たが、本当に音楽を作ってる人間なら、作曲のときは音楽を追うことに意識が集中するものだ。壁に頭を打ったり、余計な動作をすることに意識が向いたりしない。体を余分に動かすことで、音への集中が殺(そ)がれてしまう。しかも彼の動作は『カメラ映え』するものばかりだった」
音楽に携わっている人の素朴な所感は、その作曲家の「カメラ映えする動き」よりよほど説得力があるように私には思えた。
さて、この作曲家の罪悪はいくつにも及ぶ。何よりも大きな罪悪は、聴覚障害を騙(かた)ったことだ。これは「個人が責任を取れる範囲を大幅に逸脱した」罪悪である。
『レインツリーの国』(新潮文庫)という作品で、突発性難聴を患ったヒロインを書いた。聴覚障害について調べ、東京都中途失聴・難聴者協会の方にも話を聞いた。取材を受けてくれた方は片耳だけわずかに聴覚が残っており、そちらの耳を常に私のほうへ向けながら、ずっと私の唇を見つめていた。片耳をこちらに向けているので、視線はいつも斜めになっていた。「あのー」とか「えーと」という曖昧な繋ぎの言葉は判読の妨げになると事前の下調べで分かっていたのに、ついつい曖昧な言葉を挟んでしまい、面目ないばかりだった。
人間は会話の際に一体どれほど曖昧な繋ぎの言葉を挟んでしまうのか、そのとき初めて自覚した。そして、そうした曖昧な音が溢(あふ)れている中で、残されたわずかな「聴こえ」を駆使している方の苦労と強さを知らされた。
聴覚障害について少し調べれば、この障害の苦労が「障害そのもの」の不便だけではなく、「障害が外見から分からない」不便との二重苦になっていることが分かる。彼らは外見だけなら健常者と変わらない。申告しないと障害に気づいてもらえないからこその苦労や危険に取り囲まれている。就寝中に火災報知機が鳴っても、自分一人では火災に気づくことさえできない。
かの「自称」作曲家は、「障害が外見から分からない」ことを逆手に取って全聾を詐称した。世間の人は当然「聴覚障害は詐称が可能だ」という認識を持つようになる。「障害が外見から分からない」苦労や危険を地道に訴えてきた聴覚障害者たちの努力を踏みにじり、「詐称する悪意」のほうが悪しきインパクトを以て蔓延(まんえん)してしまう。今後、すべての聴覚障害者がこの悪しきインパクトに苦しめられることになるのだ。
繰り返すが、責任を取れとは言わない。たかが自称作曲家ごときが責任を取れるレベルを大幅に逸脱しているからだ。ただ、恥じてほしい。「聴覚障害が外見で分からないことを逆手に取って詐称しました」と認めてほしい。
それでも聴覚障害者の今後の苦労が拭われるわけではないが、この自称作曲家に少しでも人の心が残っているのなら、ぜひそうしてほしい。
2014.5.3 12:00 MSN産経ニュース
「NHKスペシャルを観たが、本当に音楽を作ってる人間なら、作曲のときは音楽を追うことに意識が集中するものだ。壁に頭を打ったり、余計な動作をすることに意識が向いたりしない。体を余分に動かすことで、音への集中が殺(そ)がれてしまう。しかも彼の動作は『カメラ映え』するものばかりだった」
音楽に携わっている人の素朴な所感は、その作曲家の「カメラ映えする動き」よりよほど説得力があるように私には思えた。
さて、この作曲家の罪悪はいくつにも及ぶ。何よりも大きな罪悪は、聴覚障害を騙(かた)ったことだ。これは「個人が責任を取れる範囲を大幅に逸脱した」罪悪である。
『レインツリーの国』(新潮文庫)という作品で、突発性難聴を患ったヒロインを書いた。聴覚障害について調べ、東京都中途失聴・難聴者協会の方にも話を聞いた。取材を受けてくれた方は片耳だけわずかに聴覚が残っており、そちらの耳を常に私のほうへ向けながら、ずっと私の唇を見つめていた。片耳をこちらに向けているので、視線はいつも斜めになっていた。「あのー」とか「えーと」という曖昧な繋ぎの言葉は判読の妨げになると事前の下調べで分かっていたのに、ついつい曖昧な言葉を挟んでしまい、面目ないばかりだった。
人間は会話の際に一体どれほど曖昧な繋ぎの言葉を挟んでしまうのか、そのとき初めて自覚した。そして、そうした曖昧な音が溢(あふ)れている中で、残されたわずかな「聴こえ」を駆使している方の苦労と強さを知らされた。
聴覚障害について少し調べれば、この障害の苦労が「障害そのもの」の不便だけではなく、「障害が外見から分からない」不便との二重苦になっていることが分かる。彼らは外見だけなら健常者と変わらない。申告しないと障害に気づいてもらえないからこその苦労や危険に取り囲まれている。就寝中に火災報知機が鳴っても、自分一人では火災に気づくことさえできない。
かの「自称」作曲家は、「障害が外見から分からない」ことを逆手に取って全聾を詐称した。世間の人は当然「聴覚障害は詐称が可能だ」という認識を持つようになる。「障害が外見から分からない」苦労や危険を地道に訴えてきた聴覚障害者たちの努力を踏みにじり、「詐称する悪意」のほうが悪しきインパクトを以て蔓延(まんえん)してしまう。今後、すべての聴覚障害者がこの悪しきインパクトに苦しめられることになるのだ。
繰り返すが、責任を取れとは言わない。たかが自称作曲家ごときが責任を取れるレベルを大幅に逸脱しているからだ。ただ、恥じてほしい。「聴覚障害が外見で分からないことを逆手に取って詐称しました」と認めてほしい。
それでも聴覚障害者の今後の苦労が拭われるわけではないが、この自称作曲家に少しでも人の心が残っているのなら、ぜひそうしてほしい。
2014.5.3 12:00 MSN産経ニュース